杉浦太陽物語

杉浦太陽の母は、宅建の免許、 栄養士、簿記、教員の免許も持っており、結婚式の司会の先生も行うなど、 多種多用な仕事を精力的にこなす母で、太陽は、子供の頃からスキルのある母親を見て育ち、尊敬していたという。

二人兄弟の長男である太陽は、高校を建築科へ進学し。一級建築士を目指していた、 資格の一つにある情報技術検定や危険物取り扱いなどはその当時に取得したものである。

海が好きな太陽は、船が操縦できる、四級船舶を、ジェットスキーをする目的で取得。 また、スキューバダイビングも仕事がらみでライセンスを取得したという。

岡山県出身で大阪在住の母は、仕事の都合から、標準語がベースであったが、 太陽は、関西弁、弟とは大阪弁で会話するのが常。 今回の辻さんへのプロポーズも関西弁であったことが語られている。

デビューのきっかけは、 高校生時代、俳優、岩城滉一さんと京本正樹さんのトークショーを見に行ってのスカウトだった。

人前で何かやるってのは特に好きじゃなく、むしろ絶対人前に出るのは一生無いと思っていたという太陽は、 一度はスカウトを断わる。 しかしその熱意に負け、人生は一度きりと承諾。

レギュラー『おそるべし音無可憐さん』でデビューが決まり、 高校卒業後に上京することとなった。

しかし、決して順風満帆とはいえず、太陽は、鍋居酒屋でバイトをしながら、 オーディションに行っても、行ってもほとんど落ちる毎日を繰り返す。

映画『ウォーターボーイズ』が偶然決まったが、それは、総勢30名の中のその他大勢の一人であった。

ついに太陽の貯金はそこをつき、 キャベツをそのままめくって洗い、ケチャップ付けて食べている生活を続けたところ、腎臓に石ができ、 18歳で闘病生活を余儀なくされてしまうのだった。

成人式で、地元大阪に戻った太陽は、友人に“上京したのに何やってんの〜?” と指摘され、悔しい思いを胸に、今年はやってやるゾ…とその決意表明に、祖父のお墓参りに行った。 “じいちゃん今年は頑張るから応援しといてな!!”と祈るのだった。

その後、東京に帰って一発目のオーディションが運命の『ウルトラマンコスモス』だった。

幼い頃、七夕の短冊にウルトラマンタロウになりたいと書いて 15年後の七夕にコスモスの放送がスタートした。 そしてそれは、父のお誕生日だった。

ウルトラマンコスモスのテーマが優しさ、慈愛のウルトラマンであったため当初は監督以外は、太陽の起用を反対したが、 太陽の、笑顔がよいと主演に抜擢された。

家族に電話で、『ウルトラマンになった〜(笑)』と報告。 実感がわくまでに時間がかったと当時を振り返る。

19〜21歳の太陽の青春は、すべてウルトラマンコスモスだった。 それまではオーディション受けては落ち、エキストラやって。 それが一気に主演で、すべてが変わった。子供たちに会っても、ムサシ隊員というあこがれの目で見られ、がんばる場所ができた。

しかしそれは同時に、ヒーロー役と言う責任感とプレッシャーとの闘いだった。 このムサシ役が、杉浦太陽の人生のターニングポイントになったのだ。

どんな役をやっても「すげぇな」と言われるようなかっこいい役者、人間になりたい。太陽に新たな夢が生まれた。 「ボクは・・ヒーローなんで・・・、ヒーローは『原点』です。ヒーローは人生の原点です。忘れられない・・・」 そう、その時の決意を繰り返す。

「かっこいい女性が好きですね。 相手と一緒に自分も成長できていくような」と理想の女性を語り、ともに夢を追いかけられる そんな女性との巡り合いをも夢に描いていたのかもしれない。

その後、音楽とも出会い、 実弟と、(“太雄”と書いて)“たかお”太陽と一文字違いだが、 太陽と太雄の“太い”が合わさったら物凄く太いという意味で、「Ex.Bold」(エクスボールド)という兄弟コンビを結成。 「ソウルのままで」(深夜戦隊ガリンベロの主題歌)などのヒットCDを生み出した。

続いて、NHK朝の連続テレビ小説『てるてる家族』に出演。 ついに太陽は、役者として生きていくための登竜門を経験する。

以降、舞台や映画を精力的にこなしながら、役者杉浦太陽は、前進を続け、それはまさに、 朝に上る日の光同様、その未来は、輝いているかのようだった。




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